書壇院展

吉田苞竹
よしだ ほうちく (1890-1940)

書壇院創設者
名は茂松 号、苞竹号
は他に清泉、無為庵主人、等

苞竹顕彰碑
苞竹詩書碑
雲峰詩書碑

西暦 年号 年齢
(数え年)
事項
1890年 明治23年 1 12月20日、山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)に吉田広治・久江の長男として生まれる。名は茂松。晩年には懋(しげる)を用いた。字は子貞。苞竹は号で、他に清泉、無為庵主人、逍遥窟主人などの号がある。
1897年 明治30年 8 4月、鶴岡町朝暘尋常小学校八坂分教場に入学する。母久江、継父富吉と再婚。
1901年 明治34年 12 3月、尋常小学校4年を卒業する(1年より常に首席を通す)。4月、鶴岡町朝暘高等小学校に入学する。
1902年 明治35年 13 8月、黒崎研堂の門に入り、漢籍並びに書道を学ぶ。
1905年 明治38年 16 3月、朝暘高等小学校4年を卒業する。4月、鶴岡町役場雇を拝命する。
1907年 明治40年 18 4月、山形県師範学校に入学する。
1911年 明治44年 22 3月、山形県師範学校を卒業する。同月、西田川郡大泉尋常高等小学校訓導を拝命する。
1914年 大正3年 25 8月、比田井天来の来遊にあい、益を受けるところ多く、碑碣法帖を学ぶ必要を痛感する。10月、鶴岡町朝暘高等小学校訓導を拝命する。
1915年 大正4年 26 10月、文検習字科本試験にて上京、黒崎研堂の紹介にて日下部鳴鶴に入門する。11月、文検習字科に合格する。
1916年 大正5年 27 8月、天野千代女(20歳)と結婚する。同月、山形県立酒田高等女学校助教諭を拝命する。
1917年 大正6月 28 この年、『草書便覧』を刊行する。
1918年 大正7月 29 3月、山形県立酒田高等女学校教諭を拝命する。12月、報知新聞社主催全国選書会で3等に入賞する。この年前後において、「書道及画道」「書勢」誌等の競書で活躍する。
1919年 大正8年 30 3月、山形県立酒田高等女学校を退職する。同月28日、書道専心研究の大願を発し上京、居を赤坂区青山南町5丁目におく。4月、書道研究会を創設、後進の指導に当たる。
1920年 大正9年 31 1月、三菱製紙株式会社に勤務する。5月6日、母久江死去する。
1921年 大正10年 32 6月、松本芳翠、相沢春洋と共に「書海」を創刊する。
1922年 大正11年 33 3月、平和記念東京大博覧会書道部において銅牌を受ける。
1924年 大正13年 35 3月、『碑帖大観』第1輯第1巻を刊行する(以後、毎月1巻を発行、1輯10巻で5輯50巻をもって完結)。この年、山口蕙石に師事し、硯の研究に志す。
1925年 大正14年 36 5月日本美術協会書篆刻及文人画展において3等賞銅牌を受ける(草書「藤田東湖正気歌」六曲半双)。11月、日本書道作振会第1回展委員となり、無審査出品する。この年、田辺松坡に師事し、漢詩の添削を受ける。
1926年 昭和元年 37 4月、第71回日本美術協会展に無審査出品する。同月、「加藤高明墓誌」を揮毫する。8月、書道研究会主催全国書道展を麻布三河台小学校にて開催する(審査員・丹羽海鶴、吉田苞竹)。11月、日本書道作振会第2回展に無審査出品する(草書「自作五絶」大画仙全紙)。
1927年 昭和2年 38 5月、日本美術協会書及篆刻展に無審査出品する。11月、日本書道作振会第3回展に無審査出品する。
1928年 昭和3年 39 3月26日、継父富吉死去する。4月、『碑帖大観』5輯50巻完結する。同月、月刊誌「書壇」を創刊する。7月、同志と共に戌辰書道会を結成する(長谷川流石、川谷尚亭、吉田苞竹、高塚竹堂、田代秋鶴、松本芳翠、佐分移山、鈴木翠軒)。10月、書壇社を設立する。11月、戌辰書道会第1回展開かれ、審査員をつとめる。この年、『勅諭三体帖』を刊行する。
1929年 昭和4年 40 11月、戌辰書道会第2回展が開かれ、審査員をつとめる。この年、『楷書唐詩五絶』『三体唐詩』を刊行する。
1930年 昭和5年 41 4月、日本美術協会展に無審査出品する。丸ビル2階丸菱催場にて、「書壇」発行2周年記念展を開催する(書壇社第1回展)。6月、学生書道誌「書の光」を創刊する。同月、日本書道作振会と戌辰書道会が合併し、泰東書道院第1回展開かれ、審査員をつとめる。この年、『四体唐詩五絶』『習字帖』(男子用3巻、女子用5巻)を刊行する。
1931年 昭和6年 42 4月、日本美術協会展に無審査出品する。6月、泰東書道院役員を辞任する。この年、『東湖正気歌』(楷・行・草3巻)『三体習字帖』『現代習字帖』(2巻)を刊行する。
1932年 昭和7年 43 1月1日、伊勢神宮に同志と共に参拝、伊勢山田にて書道界の革新につき協議する。4月3日、東方書道会を創立、その発起人となり、同会董事となる。11月、東方書道会第1回展開かれ、審査員をつとめる(行書「陶淵明・帰去来辞」六曲半双、草書「五言律詩」幅)。
1934年 昭和9年 45 6月、東方書道会第3回展開かれ、審査員をつとめる。9月、上野の日本美術協会にて第3回書壇社展を開催する。この年、『三体唐詩五絶』を刊行する。
1935年 昭和10年 46 5月、日本美術協会展開かれ、審査員をつとめる。6月、東方書道会第4回展開かれ、審査員をつとめる(草書「杜甫・丹青引贈曹将軍覇」幅、行書「自作・臨池偶成」額)。10月、日本美術協会にて第4回書壇社展を開催する。この年、『東湖正気歌』(楷・行・草3巻)『書学講話』『昭和法帖』『行書桃源行』『草書王摩詰五言律六首』を刊行する。
1936年 昭和11年 47 6月、東方書道会第5回展開かれ、審査員をつとめる(行書「自作・論書詩十首」十幅)。10月、日本美術協会にて第5回書壇社展を開催する。11月、日本文人画協会第1回展に会友として出品する。この年、『現代書道講習録』を監修、また『三体白詩帖』『楷書千字文』(3巻)『草書千字文』(3巻)を刊行する。
1937年 昭和12年 48 6月、東方書道会第6回展開かれ、審査員をつとめる(行書「自作・論書詩十首」十幅)。10月、日本美術協会にて第6回書壇社展を開催する。この年『行書千字文』(3巻)『臨池教本』(第1篇)『男子書翰文』『女子書翰文』を刊行する。
1938年 昭和13年 49 1月、高学年向学生書道誌「書香」を創刊する。同月、高島屋現代名家書道綜合展に出品する。6月、東方書道会第7回展開かれ、審査員をつとめる(「いろは歌」六曲一双)。9月、高島屋にて個展を開催する(37点出品)。10月、日本美術協会にて第7回書壇社展を開催する。12月から翌年1月にかけて、「簡野家墓石」を揮毫する。この年、『臨池教本』(第2篇)を刊行する。
1939年 昭和14年 50 1月、高島屋現代名家書道綜合展に出品する。6月、東方書道会第8回展開かれ、審査員をつとめる(草書「金人銘」長条二幅、章草「般若心経」六曲半双)。12月、東京府美術館にて第8回書壇社展を開催する(草書「杜甫・秋興八首之一」長条幅)。この年、『文天祥正気歌』(楷・行・草3巻)『臨池教本』(第3篇)を刊行する。
1940年 昭和15年 51 1月、高島屋現代名家書道綜合展に出品する。4月30日、税務監督局における昭和15年税務官吏特別訓練書道科講師として講演中、講演会場にて卒倒、意識不明となる。診断は脳溢血。5月1日、午前2時10分逝去。法名は、明徳院殿釈苞竹。遺著として、『書道読本』『書談』がある。


吉田苞竹顕彰碑

鶴岡公園に建つ顕彰碑
(2012.10月撮影)

吉田苞竹顕彰碑

苞竹旧宅に在りし日の顕彰碑
(2012.8月撮影)

吉田苞竹顕彰碑


この碑の正式名は、苞竹吉田先生之碑といいます。 正しい書の普及に努め大正、昭和のにわたり我が国の書道界に多大な貢献を果たした苞竹は、昭和15年5月1日に満49歳の生涯を閉じました。門人達は書家吉田苞竹の功績を記念するためにこの碑の建立を思い立ち、最初の計画では苞竹の墓のある田無の東本願寺別院を想定したものの事情により苞竹旧宅(東京都港区麻布台)前庭に昭和18年5月に建てられました。その後この地区の再開発計画にともない、平成24年10月に苞竹の生誕の地である山形県鶴岡市に移設寄贈され、鶴岡市の鶴岡公園内に収められています。 碑の大きさは高さ4.75m、幅1.74m、厚さ0.4mです。以下に碑文の読み下し文を掲げます。






苞竹詩書碑

苞竹詩書碑


1989(H1)年は吉田苞竹生誕百年、没後50年の節目の年に当たりました。この記念事業の一つとして、苞竹の出身地である山形県鶴岡市にこの碑の建立が計画され、鶴岡市当局と地元書道界の方々の努力と協力により苞竹が学んだ朝暘第二小学校校庭に建てられたのです。その後1999(H11)年の学校の移転新築にともない、この詩書碑も移設されています。 高さ2.02m、幅0.78m、厚さ0.6mの碑面には、苞竹の論書10首中の一つで、北魏の鄭道昭の書を論じた詩を現寸大で刻んでいます。苞竹は鄭道昭の書に傾倒し、王羲之が中国の南方を代表する書聖とすれば、鄭道昭は中国の北方を代表する書仙である、と評していました。以下にその碑文の内容を掲げます。

兼ね通ず篆隷艸、気勢雲峰を圧す、鄭氏摩厓の字、昂々として百代の宗たり。 鄭文公の季子・道昭は、博学明儁、自ら中岳先生と稱す。其の摩厓の正書は俊麗巧妙、所謂(いわゆる)篆勢・分韵・草情畢(ことごとく)具はる者也。 苞竹懋





雲峰詩書碑

雲峰詩書碑


吉田苞竹は、「王羲之が中国の南方を代表する書聖とすれば、鄭道昭は中国の北方を代表する書仙である」と言い、鄭道昭の書を根幹として独自の楷書の風を創りました。更に書壇院の刊行する月刊誌『書壇』の題字は1928(S3)年の創刊以来鄭道昭書を用いてきています。 中国山東省の雲峰山には北魏鄭道昭の遺した鄭文公下碑や論経書詩などが存在し、苞竹は自作論書10首の一つにおいて、雲峰山の鄭道昭摩崖の書を五言絶句で論じ、これを行書作品としています。 1989(H1)年、この書作品を原寸大で刻して山形県鶴岡市に建碑いたしましたが、私達としましては雲峰山にこそ相応しい書跡との強い想いがありました。書壇院は1994(H6)年を初めとして数度にわたり中国山東省へ訪中団を送りました。そうした中で雲峰山のある莱州市要人との間の話し合いが実り2000(H12)年3月に雲峰詩書碑の建立が実現したのです。 高さ1.95m、幅0.8m、厚さ0.12mの碑身に、原文の120%大で刻してあります。碑文の内容については、「吉田苞竹詩書碑」をご覧ください。